母の心の病の治し方
父の過去の不誠実な所業が発覚した60代後半から母は精神を病んだ。
運悪くガンにも罹患し、抗がん剤の副作用で寝たきりに近い状態になり、母の双極性のうつ病はよりひどくなっていった。
父を毎日なじるだけでは収まらず、私や兄や、親戚中に電話をかけまくっては、泣きながら暴言を吐きまくった。
父が何度謝っても母は許すことはなく、何度も何度も泣きながら父をなじった。
そのうち父も病んできたのだろう、母が父に暴言を吐くたび、父は家出を繰り返すようになる。
そうなると母は泣きながら「お父さんが出て行った、助けて!」私に電話を掛けてきた。
そのたびに実家に急行し、探し回る。
見つかったり戻ったりすると、母は泣いて「ごめんなさい。もう言わない」と謝るが、舌の根も乾かぬうちにまた暴言やなじり言葉が繰り返される。
ある時、深夜に父はまた家出した。
近所の民生委員さんが真夜中に出動して探し回ってくれ、父が橋から飛び降りようとしてたのを、すんでのところでとめてくれた。
そこまで父を追い込んで、他人も巻き込んでしまって、母は、父にも、民生委員さんにも、振り回した私達家族にも、泣きながら何度も謝った。
しかし、というか、やはり、というか…暴言は止まらなかった。
父はその後も何度も追い込まれ、自傷行為に及んで骨折したり、家出を繰り返した。
ここに至っては、別居、離婚という方向にいくのが順当なのだが、抗がん剤治療の途中であり、ひどい副作用で要介護2になってしまった母を、実家から動かすのは困難だった。
抗がん剤治療が終わり、母の体がある程度回復するまで、なんとかこのままもって行くしかない……
母の暴言と父の家出が繰り返されても、打つ手はなかった。
そんなある日、事態は思わぬ形で終息する。
父ががんに罹患した。
発覚した時点で、もう手の施しようがなかった。
母の暴言は止まった。
そして父が亡くなるまで、体調をおして通える限り病院に通い父に寄り添った。
父が亡くなった後、東京から駆けつけた兄が、お通夜や葬儀を段取りした。
兄に任せる、と言っておきながら、その段取りが気に入らないと、母が兄に暴言を吐きはじめた。
「そんな簡素なお式で送ったらお父さん可哀想でしょ!!段取りし直して!!」
それまで数年、母に振り回され続けながら、母の病状や気持ちを察し、ずっと堪えてきた私であったが、ついに切れた。
「死んでからいくら体裁整えても遅いねん!
何で生きて元気にしてる時にもっと優しくできへんのよ?! 最低や!!」
母の前では誰も口にしなかったが、集まった親戚は「お父さん、お母さんに追い込まれてたもんね…」と、母の度重なる暴言が父の病気の遠因であると、みんな捉えていた。
私もそう思っていた。
父は母に追い込まれても仕方のないことをしてた。
ずっと母を傷つけてきた。
しかも結構な長期間。
だから、私は、母を父から離す方法はないかと画策したり、父が家出して泣く母に「家出されて泣くぐらいやったらもう暴言吐くのやめたら?」と諭したことはあっても、母が父に暴言を吐くこと自体を非難したことはなかった。
だけど、父の死後、親戚の前で悲劇のヒロインを演じる母を、どうしても許せなかった。
あなたが追い込んだんよ、お母さん。
どう? 気が済んだ?
声には出さなかったけど、親戚が揃った後、大仰に泣き出す母に、そう思って冷たい視線を送った。
そして私は、全く泣けなかった。。
その後、母の抗がん剤治療は終わり、要介護度も下がり、心療内科に通っても薬を飲んでも、何をしても治らなかった母の双極性うつは、あっさり治った。
今、私が思うのは、母に振り回されて、一時自分まで心を病んでしまった、あの数年を返してほしい、ということ。
自分なりに、母のために必死で動いた。
できるだけ母に寄り添おうとした。
母が泣きながら電話をかけてきて言う父の悪口に、1時間2時間ひたすら耳を傾け、電話を切った後、トイレに駆け込んで嘔吐する日々。。
でも、その全ては解決に結びつかず、無駄に数年を費やしてしまった……実際のところはともかく、そういう気持ちになってしまってる。
誰かの心が病んだ時、解決法は、心が病んだ原因を取り除く以外方法はない。
第三者がいくら頑張っても解決しない。
もし友人が、家族や大切な人の心が病んで、私にアドバイスを求めてきたとしたら、経験を踏まえてこう言いたい。
心が病んだ原因を取り除くための具体的なお手伝い以外は、関わらない方がいいよ、と。